ココロコロコロ -7ページ目

忘れじの 行く末までは かたければ

今日を限りの 命ともがな


~ずっと愛してるよって彼は言った。

だから、最後にひとつだけワガママを言った。
ワタシだけの絵を描いてってね。
その約束が果たされることはないだろう。


~ずっと忘れないよって彼は言った。

だから、もうこのまま死んじゃえって思った。
それくらい哀しかったんだ。
心が変っていくことを認めたくなかった。


いつのまにか、
彼の絵が届かないことを悲しまなくなった。
少しずつ、
変っていく自分の心を静かに受け止めている。

ウソじゃなかったよね。
あの時は本当にそう思っていた。
それでいいじゃない。
過ぎた時を優しく感じている。

さよなら。
微笑んで言えなかった言葉を
届かないアナタに・・・。

二度と会わない。

Don’t fill my heart with lies.

変らないアナタが好きだった。
正直なアナタが好きだったよ。

だからもう何も聞きたくない。
ココロにウソの言葉を残したくないのよ・・・。

自傷行為

中学生の時、自分の髪の毛を引き抜き
てっぺんはげになりかけました。
自傷行為の一種ですね。
たいした痛みを伴わないところがせこいですが。

近頃は「傷つく」ということも少なくなりました。
ずーずーしいおばさんになったのでしょうね。
たいていの出来事にはたくましく立ち向かえるようになりました。
(いいことなのかどうかは疑問ですが。)
傷つきやすい少女の感性・・・てのは遠い過去です。

ところでワタシはどちらかというと
「バカ」といわれるより「ブス」と言われるほうが傷つきます。
それは、ワタシが「おりこう」であるより「かわいい」を
重要だと思ってるから、だと考えていたのですが、
冷静に自己分析してみると(ってほどのことじゃない)
自分は「おりこう」だとは思って(自惚れて)いるが
「かわいい」かどうかは自信がない、ってことのようです。

そう、自分に自信がありゃ、人の評価なんて要らないんです。
自信がないからこそ、他人の価値観で判断しちゃうんです。
自己を確立するのに一番簡単なのは他人との比較による差別化で
(もっともそれで確立出来ると思うのは幻想なのでしょうが)
人が見つけた幸せより自分が持ってるものが大きければいい、
人の幸せより大きなものを持っていればすなわち自分はもっと幸せなはずだと。
自分自身の価値観に自信がなくて人の物差しで自分を計ろうとしてしまうのですね。

自分に自信が持てないときは、自分で自分を認められないから
誰かにほめてほしくなるのです。
それでいいんだよって言ってほしくなるのです。
いつもいつも頑張ってばかりいられないから
時々は誰かに甘えたいなぁと思うのですよ・・・。
えぇ、今更、髪の毛を引き抜いてイジイジも出来ないので、
唐突に「恋がしたい!」とか思ったりするのです。

はい。
2ヶ月前は死にそうな勢いでしたが
わりとあっさり立ち直ったみたいです・・・。
暦の上では春がきたってことでもあるわけで、
「かわいい」って言ってくれる人を探します!(笑

虐待なのかな。

痛ましい事件が多いです。
肉親による幼児虐待のニュースはほんとうに心が痛みます。
もちろん子供はかわいそう。
でもお母さん(お父さんかもしれないが)だってかわいそう。
「犯罪者」を安易にかばうわけじゃないけれど
どうしてそこまで追いつめられてしまったのだろうと思うと
ただ一言で、酷いやつだと責めるだけじゃ意味がないなと感じます。
虐待するくらいなら子供を産むなというコメントもみかけるけど
誰も虐待しようと思って子供を産むわけじゃないでしょう。
きっと愛していた時もあったんじゃないかな。
だけど、どこかで踏み外してしまった・・・。

自分はなにがあっても決して過ちを犯さない、
という自信がなければ子供を生むな、ということでしょうか。
(絶対に他の人を好きにならない、と誓って結婚した人が
 うっかり結婚後に他の人を好きになってしまった時に
 「結婚したこと」を責めないでしょう?)
「子供を産んだこと」を責めるのじゃなく
「虐待したこと」ただそれだけが罪なのです。
虐待するなら産むなと言ってみたところで、誰も救われません。
解決になりません。
社会の無理解や、無関心から子どもと親は孤立し、
親のストレスのはけ口としてさらに虐待は進むのではないか、
死に至らない心の虐待はもっと深く進行してるんじゃないか、
所詮はヒトゴトと安易にコメントするわけじゃないんだけど・・・。

ナゼ虐待してしまったのか、
どうして止められなかったのか、
犯罪者の気持ちに添う必要はないけれど
悲しい事件を繰り返さないためには
その背景まで考えてみることも必要かもしれません。
ヒドイ親だ、と一言では切り捨てられない事情とか
また違ったモノが見えてくるかもしれません。

親だから、産んでしまったから、といって
全部を自分で抱え込もうとしないでいいのです。
辛い、苦しい、大変だ、と助けを求めて欲しいんです。
それは甘えじゃないでしょう。
個人には能力差があって耐性にも差があるし
気力ともなれば時期や環境にも左右されるし
「出来ない」ことがあっても仕方ないじゃないですか。
親が出来ないことなら周りでサポートするしかないのです。
社会ってそういう仕組みのものでしょう?
何も子育てに限ったものでもなく、
障害者の支援しかり老人介護の補助しかり。
みんながやってるからあなたも出来るはず、なんてのはナシね。
その手の言葉は励ましじゃなくプレッシャーにしかなんないです。

幸せな環境に居る時には、それが幸運によって与えられたとは考えないものですが
失う時は一瞬の不運で奪われるということもあるのです。
ちょっとしたきっかけで
ほんのささいな偶然で
自分の身の上にも起こるかも知れない出来事。
「虐待するなら産むな」と安易に切り捨てないでください。

行政や福祉に頼ることもせず、
誰かに助けを求めることも出来ず、
為す術もないままに、虐待が起きてしまうのだとしたら、
事件は防げたかもしれないのに、という悲しさがあります。
死に至らせる以外の方法を思いつかなかった不幸、
親も子どもも助かるための方法を知らなかった不幸。
生きるために必要な知恵を誰が教えてあげられるのでしょう。
情報があふれているはずの社会で、
取り残されるだけしかなかった人を
誰が救ってくれるのでしょう。

虐待されるために生まれたわけではない全ての子どもに
心安らかな日々が訪れますように・・・。

日常生活や家庭内にも「愛」を(笑

倦怠期、とか言ってる方々は、
お連れ合いの方に興味を持ち続けてますか?
日常の些細なことなんて知りたくないかもしれないけど
相手が何を見てどう感じたのかを気にもしないなんて
相手の想いを知ろうともしないなんて哀しすぎません?
あるがままの普通の姿を気にかけてあげるべきですよ。
アナタは今更って考えてるかもしれないけど
毎日少しずつ変わってゆく相手を知ろうとしなければ
アナタの知ってる相手はホントの姿とはかけ離れていくばかり。
こんなはずじゃないって思っても遅いよ。
投げやりにじゃぁどーすりゃいいのよ?なんて言わないでね。
こうしてああしてって言うのは簡単だけど
本当にして欲しいことはそんな言葉じゃ伝わらないよ。
相手のコトを考えるという行為そのものが望みなんだから。
くつろげる間柄に安心しきって
嫌な部分ばかり見せていたら
どんな愛だって冷めるのが道理でしょう。
一番身近な相手を幸せに出来ずに
アナタはいったい何が出来ると言うの?
まずは相手の話を良く聞くことでしょう。
表面の出来事じゃなく心の動きまでをしっかりと。
それがマイナスの評価に繋がることになっても
きちんと相手を見ていた結果なら納得できるでしょう?

ま、理屈はわかってるんだけどさ
ワタシの場合は、とりあえず相手だよな・・・うん。